世界的にたいへん有名な、
フランスの国民的愛唱歌であるシャンソン『愛の讃歌』。
2024年(今年)7月26日、パリオリンピック開会式のフィナーレで、
世界的な人気歌手、セリーヌ・ディオンさんが、
エッフェル塔から力強く高らかに歌い上げ、
感動的なオリンピックの幕開けとなったことが、記憶に新しいですね。
これまでにも世界中で、数多くの著名な歌手が歌ってきました。
日本でも、一般的に広く親しまれ、
皆さんも、聴いたり歌ったりする機会が多いでしょう。
当音楽教室の大人の声楽クラスでもレッスンしています。
シャンソンを代表する名曲『愛の讃歌』ですが、
実は、フランス原語の歌詞と、日本語の歌詞とでは、
《 歌詞で表されている【愛のかたち】が違う 》ことを知っていますか。
どちらの歌詞も、
【恋人への愛】が情熱的に書かれているのですが、
表現している【愛のかたち】は違います。
内容が違うので、
日本語の歌詞で歌う場合には、
フランス語で作詞された原詞とは別の曲、
《もうひとつの『愛の讃歌』》としてとらえて、表現することになるのです。
それぞれの歌詞で表現されている【愛のかたち】は、
どのように違うのでしょうか。
なぜ、違いが生まれたのでしょうか。
フランス語原詞の作詞、日本語に訳詞された経緯や曲の内容について知ることで、
表現豊かに歌うことにつなげましょう。
🎼シャンソンとは
シャンソンについて、簡単に説明します。
▼シャンソンとは
フランス語の歌曲の総称
もとは、中世(13-16世紀)の宗教的な伝道歌や、
吟遊詩人が歌った物語詩のこと。
19-20世紀にかけて、
一般大衆の恋愛、家庭、仕事など日常を歌う歌として発展した。
その過程で、時代の変化に応じて、
他国の音楽文化であるジャズ、ロックなどと融合されたり、
ポップス調で作られるなど、より幅広く広がっていった。
現在では、音楽のジャンルを超えて演奏される歌となり、
映画やミュージカルナンバーとしても数多くの曲が使われています。
▼シャンソンの代表曲
愛の喜び
枯葉
バラ色の人生
パリの空に下
ラ・メール
サン・トワ・ミー
マイウェイ など
🎹シャンソンは【一編の短いドラマ】
シャンソンは、
伝道歌や吟遊詩人が歌った物語詩から発展したため、
伝統的に歌詞が重んじられ、語り物的要素が強い歌です。
それは
【一編の短いドラマである】
と言われるほどのストーリー性に富んでいます。
人が抱く様々な感情(喜・怒・哀・楽・愛・憎・苦・悲・嬉・・・)を、
包み隠さず歌詞で表して、大胆に歌います。
その劇的な感情表現が特徴のシャンソンは、
文学、絵画、映画、演劇など、
フランスの芸術文化に大きな影響を与えました。
🎹シャンソン歌手に求められたこと
シャンソン歌手には、
歌詞が持つストーリー性に富んだ内容や、曲に込められた様々な感情を、
激しく情熱的に、また、軽やかにリズミカルに、
自在に歌う豊かな表現力が必要とされます。
また、それぞれの曲の独自性が重要とされたため、
声量や声質、音楽的な正確さよりも、
歌い手独自の感性で曲をとらえ、個性的な表現で伝えることが求められました。
そのため、シャンソン歌手の多くは、
自ら【一編の短いドラマ】を作詞し、
自らの個性を発揮した歌の表現によって、
新しい《自分独自の歌》を誕生させる
ための独創性あふれる発想力・表現力を磨き続けました。
🎼エディット・ピアフ:『愛の讃歌』を生んだシャンソン歌手
『愛の讃歌』を生んだエディット・ピアフは、
フランスで最も偉大なシャンソン歌手として、愛されています。
死後60年以上たった今もなお、
ピアフが歌うシャンソンは売れ続けています。
🎹エディット・ピアフの悲劇的な生涯
シャンソン歌手としては、素晴らしい功績を残しながら、
ピアフの生涯は、悲劇に満ち満ちていました。
数多くの伝記映画や書籍などで、
皆さんもご覧になったことがあるでしょう。
▼エディット・ピアフの生涯(1915-1963年 仏)
パリの貧しい地区で生まれ、家庭は経済的に困窮し、
エディットを育てていくことができず、父の実家に預けられるが、
そこは売春宿であった。
10代半ばからストリートシンガーを始め、
1935年(20歳)
ナイトクラブのオーナーに見出され、彼の店で歌うようになる。
1936年(21歳)
ピアフ初のレコードが録音されるも、父親代わりでもあったオーナーは
何者かに殺害されてしまう。
ピアフは容疑者として逮捕された後、釈放となる。
この事件は、犯人がわからないまま迷宮入りとなる。
1940年(25歳)
ジャン・コクトー(劇作家)、ジャック・ボーガット(詩人)モーリス・シュバリエ(俳優)
など著名な芸術家たちと交流するようになり、
ピアフ自ら多くの歌詞を書き、作曲家たちと歌を生み出していく。
1946年(31歳)
『バラ色の人生』発表。
この頃からシャンソン歌手として知名度、人気が高まっていく。
1947年(32歳)
アメリカでの初公演。
世界的な人気を得て、アメリカ、ヨーロッパで公演するようになる。
1950年(35歳)
『愛の讃歌』発表。
1951年(36歳)
自動車事故にあう。
生涯で4度の事故にあい、治療過程でモルヒネ中毒で苦しむことになる。
1952-1956年(37-41歳)
1度目の結婚生活。
1962-1963年(47歳-死去まで)
2度目の結婚生活。
1963年(47歳)
最後の曲『ベルリンの男』録音。
癌により亡くなる。
墓地でのピアフの葬儀には4万人以上の人々が訪れ大混雑となる。
「第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのは、
ピアフの葬儀の時だけだ。」
※シャルル・アズナブール(1924-2018年 仏 歌手・俳優)談より
幼少期に育った環境、貧困、
ピアフを見出したクラブオーナーの殺害事件、逮捕、
4度の交通事故、手術の繰り返し、
モルヒネによる薬物中毒、、、
ピアフは自ら、
この波乱に満ちた壮絶な生涯を反映させて作詞し、
独特な傷心的な声と、歌い方の表現によって、
《ピアフ独自の歌》を、【一編の短いドラマ】として、
新しく次々と誕生させ、
心身ともにボロボロになりながらも、歌い続けたのです。
🎹エディット・ピアフ最大の悲劇:恋人の死
数々の悲劇に見舞われたピアフの、最大の悲劇と言えるのが、
愛した人との死別です。
ピアフが愛した人は、
マルセル・セルダン(1916-1949 仏)
元世界ミドル級王者のプロボクサーです。
1947年(32歳)、
ふたりは、ピアフのアメリカ初公演の時に出会い、
たちまち恋に落ちました。
ですが、2年後の1949年、
セルダンが乗った飛行機が墜落し、亡くなってしまいました。
ピアフのニューヨークコンサートに向かう途中でした。
ふたりは、お互いに愛し、必要とし、求めあう【恋人】として公然の仲でしたが、
実は、セルダンには、妻子がいました。
【不倫】だったのです。
『愛の讃歌』はセルダンのためにピアフが書きました。
セルダンとの【不倫関係】を断ち切るためだと言われています。
※レコーディングは1950年、セルダンの死後に行われています。
ピアフにとっては、
愛した人に妻子がいた悲劇、ということでしょう。
そしてその人が事故死した悲劇、
人生最大の悲劇でした。
愛を知らずに育ったピアフに、初めて人を愛し、
人に愛されることを教えてくれたセルダン。
その愛を失ったのですから。
🎼『愛の讃歌』ピアフ作詞(フランス語原詞)と日本語歌詞の内容の違い
【セルダンへの愛】が情熱的に書かれている『愛の讃歌』。
ピアフ作詞(フランス語原詞)では、
《【セルダンへの【愛のかたち】をどのように表現しているのか 》を、
確認していきましょう。
🎹『愛の讃歌』ピアフ作詞(フランス語原詞)の日本語訳
※こちらでは、フランス語原詞は省略します。
『愛の讃歌』フランス語原詞の日本語訳
作詞:エディット・ピアフ
空が落ちてきても
大地が崩れてしまっても
構わないわ
あなたが愛してくれるなら
世界がどうなったとしても
愛にあふれた朝があれば
あなたの手に包まれていれば
どうでもいいのよ
世の中のことなんて
愛しい人
あなたが愛してくれるなら
世界の果てにまで行けるし
髪を金色に染めることもできるわ
あなたが望むなら
月さえ手に入れてあげる
財宝も奪ってあげる
あなたが望むなら
祖国を捨てることもできるし
友だちを捨てることもできる
あなたが望むなら
笑われても構わないわ
何だってできる
あなたが望むなら
もしいつか
別れの時が来て
あなたが死んでしまっても
構わないわ
あなたが愛してくれるなら
私も一緒に死ぬわ
私たちは永遠を手に入れるのよ
広い青空の
何の悩みもない空で
愛しい人
ふたりの愛を信じてる?
神よ
愛し合うふたりを
再び結ばせたまえ
🎹【不確かな愛】:ピアフ作詞(フランス語原詞)
【不倫】にもかかわらず、公然と愛し合っていたピアフとセルダン。
【恋人への愛】を大胆に、情熱的に歌っています。
ですが、ピアフの歌詞からは、
本来ならば【認められない愛】に悩み、不安にさいなまれ、
後ろめたい気持ちが見え隠れしています。
『愛の讃歌』が、言われている通り、
セルダンとの関係を断ち切るために書かれたのなら、
ピアフの願いは、
《私たちは永遠を手に入れ》、《再び結ばれる》ことですね。
皮肉にも、セルダンは、作詞した通りに亡くなってしまいました。
《私も一緒に死ぬわ》
の作詞通りに、後を追うのではと心配されましたが、
セルダンが亡くならなければ聴いてもらうはずだった
その晩のニューヨークのステージで、気丈に『愛の讃歌』を歌い上げました。
ピアフは【永遠の愛】を願ってはいましたが、
心のどこかで、それはかなわないだろうと感じていたのではないでしょうか。
セルダンの愛を確信したくてもできない切なさから、
思わず、《 ふたりの愛を信じてる? 》と歌ってしまうのです。
ピアフが歌った『愛の讃歌』は、
これからもセルダンに愛され、結婚し、堂々と愛し合い、
ふたりの愛が未来に続いていく【確かな愛】を実感し、幸せを得たいのに、
いまだそれが叶わない【不確かな愛】を歌っているのです。
🎹『愛の讃歌』日本語の歌詞(訳詞:岩谷時子)
日本語の歌詞は、いくつかありますが、
岩谷時子訳詞の歌詞(歌:越路吹雪)が、一般的に広く知られています。
ピアフ作詞(フランス語原詞)との【愛のかたち】の違いを確認しましょう。
『愛の讃歌』日本語の歌詞
訳詞:岩谷時子
あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り
あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの
頬と頬 寄せ 燃えるくちづけを
交わすよろこび
あなたと二人で 暮らせるものなら
なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人で 生きていくのよ
あたしの願いは ただそれだけよ
あなたと二人
固く抱き合い
燃える髪に指を からませながら
いとしみながら
くちづけを交わすの
愛こそ燃える火よ
あたしを燃やす火 心とかす恋よ
▼岩谷時子(1916-2013年)
作詞家、詩人、翻訳家
西洋のメロディーに美しい日本語が生きる訳詞作りに情熱を注いだ。
レコード大賞作詩賞、レコード大賞、芸術祭賞文部大臣奨励賞、勲4等瑞宝賞受賞。
訳詞として有名な曲
『ラストダンスは私に』『サン・トワ・ミー』『ある愛の詩』
『グリーンスリーブス』『マイウェイ』『王様と私』
『ウエストサイド物語』『レ・ミゼラブル』
『アメイジンググレイス』『ミス・サイゴン』
🎹【確かな愛】:日本語の歌詞
岩谷時子さん訳詞は、【恋人への愛】をストレートに力強く歌う歌詞です。
ピアフ作詞のような【愛し合うことの不安、うしろめたさ】などは
全くありません。
岩谷時子さんの訳詞は、
あなたを愛し、あなたも私を愛し、それは誰にも何にも認められ、
ふたりの愛は【永遠に続く愛】だと信じられる実感があり、
喜びあふれる【確かな愛】を歌っています。
🎹日本語の歌詞が【確かな愛】になったわけ
岩谷時子さんは、
ピアフ作詞の【愛のかたち】を意図的に変えて、作詞したことになりますが、
それは、なぜでしょうか?
岩谷時子さん訳詞の『愛の讃歌』を、
越路吹雪さんが歌い始めた1952年の日本は、
まだ豊かとは言えず、
さらに発展していくための【正の要素】を求めていました。
大スター越路吹雪さんの華やかなステージは、
女性の自由、強さ、美しさを感じさせる明るいパワーにあふれてました。
作詞した岩谷時子さんは、
越路吹雪さんが歌う歌には【負の要素】を入れず、
聴いている人の心が明るい希望で満たされるように、
【幸せな愛】のかたちを表現したのです。
▼越路吹雪(1924-80年)
日本を代表するシャンソン歌手・舞台女優
元宝塚歌劇団男役トップスター
日本レコード大賞、文化庁芸術祭奨励賞受賞
1953年、パリに渡たり、
ピアフの歌声を生で聴き、衝撃を受けたことが日記に書かれています。
「血の中から湧き出てくる歌を感じた。」
「私には何もなくて、私は負けた。私は泣いた。」
🎼《もうひとつの愛の讃歌》として歌う
書かれている【愛のかたち】が全く違うふたつの『愛の讃歌』は、
当然、歌う場合にも、歌い方の表現を変えて歌います。
一般的には、日本語で歌う場合が多いですね。
ピアフが『愛の讃歌』を作った背景を知り、理解を深めた上で、
本来の内容とは全く違う別の曲として、
《もうひとつの愛の讃歌》として歌いましょう。
【恋人への愛】を、明るく力強く、
そして思い切って大胆に、感情あふれるように表現して歌いましょう!
当教室でご一緒に【確かな愛】に浸ってみませんか。
🎹他にもある日本語の歌詞バージョン
『愛の讃歌』は、日本でもこれまでに、
美川憲一、桑田佳祐、本田美奈子さんら多くの有名な歌手が歌ってきました。
美空ひばり、加藤登紀子さんは、他の作詞家の訳詞で、
美輪明宏、宇多田ヒカルさんは、自身で訳詞して歌っています。
中には、ピアフ作詞の内容に沿って訳詞されたものもあります。
機会があれば、聴き比べて、歌の表現力に活かしていくと良いですね。
今回のコラムにお付き合いいただき、
ありがとうございました。
次回のコラム『ちいさな感動おおきな感動』も
よろしくお願いいたします。
梅谷音楽学院 講師 IKUKO KUBO (^^♪